大塚英志『「おたく」の精神史』

 

「おたく」の精神史―一九八〇年代論 (朝日文庫 お 49-3)

「おたく」の精神史―一九八〇年代論 (朝日文庫 お 49-3)

 大塚英志『「おたく」の精神史』を一気に読んで、正直励まされた思いに駆られている。


 批評の営みとは、歴史を書くことの営みとは、極めて厳密に「客観的」に書かれてしかるべきものである、そう多くの人が思っていることだろう。だとしたら、そう考える人は、この本の「主観的」な叙述に戸惑うことになる。


 実際、本書のタイトルにあるように、大塚は決して「オタク」とは書かず、あくまで彼にとっての「おたく」にこだわり続け、そして東浩紀からは、大塚は自分の経験を一般化するのを拒んでいると批判も受けたという。


 しかし僕からすると、この本の魅力と本質は、「おたく」と書き続けた事だったように思われる。大塚自身はこう述べる。


80年代という溢路を記述するためにぼくが極めて主観的な方法をとったのはこの溢路を「他人事」として相対化したくないからだ。364頁


 かといって、僕が励まされたのは、彼が極めて「主観的」に歴史を書いたからというだけではないし、言い換えれば、彼が「自分事」として「おたく」について書いたからでもない。


 たぶん、東のような批評家の批判は、大塚が「おたく」の語に秘めた意味を理解していない(?)といえるかもしれない。つまり、otakuを「おたく」と書くことは、大塚のこの語によって名指そうとしている対象の”精神”に極めて充実であるからである。その”精神”を持っているとされるのは、当然著者である大塚自身である。そしてそのじぶんを書くときのその書き方に本当に感銘を受けたのだ。


 どういうことか。つまり、大塚が描き出したい対象=自分の”精神”とは、「オタク」と書き一般化されたならば、その本質が失われるものだということだ。それに対して、「一般化」を拒んだという批判は、したがって、当たらないだろう。「一般化」できない存在こそ、「おたく」なのである。たぶん、「おたく」へのこだわりも、「オタク」が一般化されたから可能になっただけな話で、もし「オタク」が一般化されていなかったならば「おたく」という語さえも大塚は拒んでいたのではないか。


 このことを理解できないと、大塚がどうして、上野千鶴子らに確か「大塚は通過儀礼や「成熟」とか言わなければ」(うる覚え)と批判されるわけだけれども、「通過儀礼」や「成熟」にこだわるのかさえも理解が出来ないことだろう。


 「通過儀礼」とは、僕なりに言わせれば、実存が社会化されるときに、他者達の住まう世界に入っていく際に、その手ほどきとなる第三者/第三項のことである(社会へと導いてくれるのが人であれば、第三者、社会へと導いてくれるのが儀式であれば、第三項)。なんで大塚が、宮崎勤や、神戸連続児童殺傷事件の14歳の中学生にこだわったかといえば、その精神が抱えていたものとは、この第三者/第三項と彼らが適切に出会う事ができなかったということだったのではないか。


 精神分析の用語で言うならば、「父の名」nom du pèreと言ってもいいし、通過儀礼とは、要するに「象徴的な他者」との出会いの場であり、「象徴的な他者」によって、社会システムの一つの場所を指し示すなんらかの象徴的な名前を与えられるという経験なのだ。


 「成熟」というと、「大人」になることであり、したがって、それを問題にするということは、簡単に言えば、「大人になりなさいよ」「大人になる事が重要」という事になりかねず、それだから、「成熟」なんて言い始めるのはつまらないことになってしまうわけだけれども、実際大塚が問題にしているのは、そんなありふれたことがらではない。大塚が結局解き明かしたかったのは、人間存在の社会化の過程なのである。この過程を経なければ、精神分析では、一般的に「精神病」者となるといわれるような事柄だ。


 「大人になる」ことをつまらないと言ってしまうひとには、じぶんたちがあたり前のように社会化できてきたことが見えていない。どうやって、じぶんがじぶんになることができたのかわかっていないし、それがどれだけしんどい作業だということを認識していないのだ。


 つまり、思うに、多くの人は、社会的地位を示すさまざまな名称がじぶんに割り当てられても、不安を感じることはない。「先生」と呼ばれることをときには喜ぶ人もたくさんいるだろう。しかし、大塚にとって、そしていまこのように書いている僕自身にとって、社会的地位やそれを象徴するなんらかの用語をじぶんにあてはめても、違和感しか感じることができないのだ。根本的に、じぶんを名指す言葉が欠けてしまっている。せいぜい「僕」等々、大塚で言えば「おたく」と言ったように、主観的で誰にも適用できないようななんらかの呼称をしぶしぶ使わざるをえないということにいきつく。



 その点で、興味深かったのは、なるほどな と思ったのは、神戸の事件の少年が、「愛する「バモイドオキ神」様へ」となる手紙ないし手記を書いていて、この「バモイドオキ神」なる「象徴的他者」に、承認してもらうために、公園でひとりで歩いていた女の子に金槌を振り下ろすのである。この儀礼によって、彼は、「酒鬼薔薇聖斗」という名を「バモイドオキ神」から頂くのだ。もしこの儀式がなければ、彼にとって、この世界には、なんら他の人と共有可能な「現実」は形成されえなかっただろう。


 もちろん、だからといって、この少年がしたことを正当化することはできないのは言うまでもないが、しかし、彼の周囲のひとたちが、彼の社会化に失敗した点を問題視することはできるだろう。「バモイドオキ神」とは違う「象徴的他者」を彼に出会わせることがどうしてできなかったのか。どうして自己流の社会化を彼に強いてしまったのか。この点はやはり考えなければならない点だ。


 そう考えてみると、東はよくわからない。なんで大塚に「一般化」しろだなんてことがいえたのだろう。彼自身、こうしたいわば「父権」や「象徴的他者」の問題をよく理解しているからこそ「存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」なる書物を書いたのではなかったか。


 大塚が、宮崎勤を「じぶんだ」と言い放ったのは、こうした「象徴的他者」との関係、第三項との関係形成がうまくいかなかった経験をさしてのことだと思う。その意味では、僕もまた、この経験を共有していると断言できる。僕は、第三項との関係がうまくいかなかった結果だからだと思う、いまでも”なににもなりたくない”という思いを根底に持ち続けている。しかし、なににもなれないことは、社会に居場所を持たないことである以上、ほんとうにそうであれば、それだけ生きる事のしんどさを感じざるを得ないだろう。象徴的な何かになり、何かを得る事ができずに苦しむわけである。


 大塚が僕と同じことを感じているかは分からないし、それこそ「一般化」は不可能だ。それでも、大塚の試みは僕にはこう写る。自分を社会の中に位置づける経験につまづいた人が、その社会の歴史を、そこに自分を位置づけながら描き出そうとする試みなのだ、と。そして、それは、彼なりの遅ればせながらのひとつの社会化の方途でもあるし、そのような試みをしている人がいる、それも極めて説得的に80年代を些細な細部にまでわたって描き出している、どれほどそれが僕のような人間を鼓舞することだろうか。


 感銘を受けたのはそのためである。


 


 

國分功一郎『来るべき民主主義』

 國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書、2013年)を読んだ。


 本書は、2009年に、東京都小平市で、地域住民の憩いの場となっている雑木林や玉川上水を貫通する巨大な道路建設計画が明らかになり、以後、それを巡って、著者ら住民がなんとか計画の見直しを求めて行政と格闘していった記録であるとともに、それを政治哲学の問題として考察した書である。


 行政と格闘と言うと、いわゆる住民の反対運動と捉えられるが(それ自体はもちろん悪くもない)、小平のこの運動が他の単純な反対運動と違って見えるのは、この運動が、道路建設の反対を求める運動ではなく、この計画に対する住民投票を求める、それも公正で住民達も納得できる住民投票を求める運動である点だ。


 この計画自体が半世紀前に立案されたものであり、この計画があるために府中街道の道路整備を行わなかったこと、そして雑木林がどれほど住民達の多くに愛されているか、等々、数え上げればきりがないというほど、計画の不条理なところは、枚挙に暇がないが、それはここでは置いておく。


 端的に言えば、計画に関する住民投票を求める署名は、規定に達し、住民投票条例案小平市の議会でも可決され、実施が決まったのだけれども、後だしじゃんけんで、市長の小林正則氏が「投票率が50%未満であれば住民投票は「不成立」」という条例の修正案を出し、(市長自身の市長選の投票率が37%だったのにも関わらずだ)、この修正案が可決され、結局投票も35.17%の投票率であったため、成立さえ認められなかった。


 だけど、こうした小平の運動の記録だけに本書の価値があるのではないし、やはりじぶんじしんも関心を持ったのも、こうした結果うんぬんのものではなかった。結果云々だけだと、結局、だから行政はだめなんだ というありきたりな主張に終始してしまって、そうすると、どうせだめなのはわかっている、だけど反対はする ⇒ 目的は反対する事それ自体 みたいな話にもなりうる。


 そうではなくて、國分氏が主張するのは、そもそも近代西欧由来の政治システムそれ自体に問題があるということで、このことの方がより興味深い。


 その問題とは一言で言えば、これまで近代の民主主義というのは、主権=立法権 という前提に基づいていたし、それがホッブスにしろ、ルソーにしろ多くの近代の思想家たちに見られる前提だ、ということで、しかし、実際は行政(官僚組織含む)が、議会で作られた法を、なんらかの仕方で解釈したりして、法を大部分が裁量に基づいて執行してきていて、現状、日本でも、議会が統治にかかわるすべてに決定を下しているというよりも、行政が単に議会で決めた事を執行する以上に多くのことを決めている現状がある。それがまさに小平市の問題に顕著であったと。どうして、「実際に物事を決めている行政の決定過程に民衆」(15頁)は関わることができないのか。実際に多くのことを決めている行政権に民衆が関与できないのに、どうしてそれでも「民主主義」といえるのか。まさにこれが國分氏が定義している問題である。


 これと関連して興味深かったのは、実際のところ「絶対主義」国家は、絶対的な権力を盛っておらず、当時だからこそ、君主の統治を正統化する概念として「主権」が考え出されたという点。そこでてことなったのは、<統治の規範>たる法の確立であり、立法権であるということ。支配者による統治は、法によってこそ行われるべきだという思想。その法自体は、誰もが周知することができる。だから、それまで司法も、拷問等様々な現在では許されないこともされてきたが、以降、法に則って、公開されてもまったくその正当性が疑われない仕方へと変わっていったと。つまり、それまでこまごまとしながらもいろいろあった<統治の技術>よりも<統治の規範>が重要になっていったわけである。

 
 しかし、読みながら素朴に思ったのは、以下の点。どうして立法権と「公開性」が結びつくのか。ちゃんとした法に則っていれば、公開しなくてもよいのではないか。疑われたときだけ公開すればよいのではないか。また、なんで主権は立法権でなければならなかったのか。当時、分権体制から集権体制へと移行させるほかの方法はなかったのか。


 考えるに、基本的に立法権が着目されたのは、たとえばイギリスの歴史では、国王チャールズ一世は、クロムウェルら議会を掌握した独立派によって、処刑される。こうしたピューリタン革命は、王権神授説に基づく国王に対する人々の戦いであり、振り返ると現在の立法権=主権 確立の第一歩の話である。「人々」と言っても一般民衆ではなく、クロムウェルがジェントリという貴族には含まれないものの上流階級を構成する下級地主層出身であったように、端的にいえば一部の金持ち地主らである。 彼らが唯一統治に参与できるのは、当然ながら議会である。だから、国王からどうした力を奪えるか、となったとき、立法権の正統性の問題に行き着いたのだろう。


 で、これをめぐって、ホッブスやロックやルソーら、思想家間でさまざまな主張がなされたというのが近代の政治哲学史


 もう一点、考えさせられたのは、法と制度との関係。國分氏が言うには、「法は行為の制限であるから、法が多ければ多いほど国家は専制的になる。それに対し、行為のモデルであるから、制度が多いほど、人は自由になる」(145頁)。だから、法の制定や法の制定権=立法権を重要視して議会の改善ばかりに目を向けるのではなく、「主権者である民衆が政治に関わるための制度も多元的にすればいい」(147頁)ということ。


 もちろん、こうした制度と法についての考えは、ドゥルーズ由来のものであるわけだけれども、とても興味深く読み、なるほど、確かにそうだと納得させられながらも、考えたのは、それでも内的な法の確立も重要ではないか、という事。つまり、法と言っても、実定法のみならず、自然法についての考えも当然あって、近代の西欧の思想家たちが常に念頭においていたのも、自然法と人間との関係だと思う。


 どうしてこれが自分には重要に感じられるかと言うと、結局、問題は、「モラル」の形成に関わる事だからで、たとえば、ある行為をして、罰せられても、人が「罪」を感じるとは限らない。外的でその意味では現実的な法を犯しても、個人としてのじぶんにとって、それがいったいどんな意味を持つのか。その意味で、法などどうてもよく、制度を多元的にしろというのはほんとうに納得する。ただしその時の法は、外的な実定法。


 勝手な思い入れを語ると、ルソーを最近ちゃんと読みたいと思うようになったのは、彼が、あくまで内的な法の確立に偏屈なまでにこだわっていたように思えるからである。神様がまったくいなくなった世界にあっては、そして、宗教を信じないと言い切る日本人にとっては、当然、どうして法にしたがないといけないのか、本当のところでなにもこれに答えることは出来ないはずで、では、法がまったく不必要かといえば、じぶんが生きていくに当たり、じぶんの中で、これをしたときにじぶんを苛みじぶんをせめてしまう、これをしたときにじぶんを誇らしく思う、そうした法の確立がとても重要に感じられる。


 一般的にドゥルーズフーコーって、否定的で規定的な法を拒み、肯定的・積極的なもの(ここでは制度)を重要視するわけだけれども、逆に言うと、そうした発想にいたるのは、彼らが極めて醒めているからではないか、と言えなくもない。否定的消極的な法と肯定的・積極的なものとの対立と言うのは、本質的には、なにを重要視するかという部分での対立に過ぎなくて、つまり、否定的な法を重要視するのは、内的でじぶんにとっての道徳的な次元の判断を重要視するからで、もっといえば、これを重要視するからと言って、肯定的・積極的なものを拒む理由にもならず、だから、対立と言っても、両立する対立に過ぎない。じゃあなぜ、そうした内的な法を重要視するかといえば、それ以外のものは、じぶんに切迫していないからで、そうした考えからすると、内的な法の問題をとりあげずに、肯定的で積極的なものを主張できるのは、そこから逃げているか、そうでなければ、あまりに醒めてしまっているからと考えることができる。


 考えてみると、フーコーは、確かに、『監獄の誕生』で刑務所は、人を更生するためのものではなく、「非行者」というカテゴリーを形成するためにあると主張していた。うーん こう考えてみると、判断が難しい、というのは、これ自体には、内的な法の確立をむげにしているとはいえないからだ。つまり、フーコーが問題にしたのは、刑務所での規律・訓練で、身体の隷属化=主体化を行うと共に、「非行者」あるいは「犯罪者」でもいいが、社会の中で象徴的にじぶんがどんな位置を占めるかをその主体に知らしめようという機能があるということで、主体を象徴するなんらかのものを、不当なアイデンティティを人に押し付けてくるものを、拒まなければいけない、という主張にもなりうる。


 ドゥルーズは、よく知らないとして、フーコーについて言えば、「告白」の問題を晩年にいたっても、とくに講義で問題にしていた以上、「醒めている」という批判はあたらないだろう。こう考えてくると、あまりこの対立にこだわる必要がなく、単純に國分氏がいうような制度の多元化を目指す方向は推奨すべき問題に思えてきた。両方を手放さないこと。レッテルを産出しながら、当人からすると不釣合いなアイデンティティを、そこがお前の住処なのだ、といわんばかりの権力作用に抗い、制度を多元化していきながらも、あくまで、じぶんが何に苛み・何には苛む必要がないのかを、考え続ける事。


 
 こんな風に、まとまりのない文章になったのは、考えもまとまりがついていないからだろう。それでもひとまずタイプをやめよう。

川村湊『原発と原爆 「核」の戦後精神史』

原発と原爆---「核」の戦後精神史 (河出ブックス)

原発と原爆---「核」の戦後精神史 (河出ブックス)



 本書を読んだ。そいでamazonにレヴューを書いた。以下そのレヴュー



あまりにひどいレヴューばかりなので、じぶんもレヴューを書くことにした。
 
 本書は、1951年網走生まれの、もはや大御所的な文芸評論家・川村湊による、「核」エネルギーを巡る表象分析・批評の書である。現在(2014年10/28)本書に対する3つのamazonのレヴューが確認されるが、それもどれも☆みっつの比較的凡庸な評価に留まっているが、その評価の一因には、読者はタイトルに惑わされて、“原発と原爆”に関する一貫した批判が展開されると思って読んでいることがあるように思える。そのため、「遠回りな脱原発の書」というレヴューや、「「核」と戦後サブカル史というのが適当か」といったレヴューが登場している。おそらく、もっと直接的に脱原発を主張すればいいではないか、というのがこれらのレヴューの本書に対する批判だろう。
 しかし、それは本書を理解し損ねているといわざるを得ない。そもそも、私が本書を手にとって読み進めていって驚いたのは、著者の川村湊氏がここまで政治的な主張を押し出し貫いて表象分析を行っていたことだった。ただもちろん、それは私が川村氏の著作や評論をあまり読んでいないことからくる誤解と言う可能性も否定は出来ない。それでも、『徒然草』に関する論文で群像新人文学賞を受賞し、基本的にオーソドックスな文学研究・評論に従事してきたその著者が、あからさまに現在著者が持つ「脱原発」という主張を軸にして、過去のそれもいわゆる「サブカルチャー」と揶揄される漫画・映画・小説(それも「純文学」ではない小説)を一刀両断していく様は、驚きといわざるを得ないし、そこにこそ本書の価値があるように思われる。
 そもそも、どうして「ゴジラ」や「鉄腕アトム」から、原発と原爆について語らなければならないのか。それは、これらのその時代を生きた人であれば誰も(すくなくともその多く)が精通している作品を通してしか、被爆から平和利用へと日本が歩んでいく過程で、有名な著述家や思想家等々ではない、ただ生きてへたすれば思想を表現することなく死んでいく、市井のひとびとの思いというのは、掬いあげることなどできないからではないか。それを見ずに“遠まわし”などと言うのであれば、自分が読むべき本を取捨選択することができずにただ適当にタイトルから本を選んでいるといわれても仕方がないだろう。
 私は著者がどんな階層の、どんな生活水準の、どんな生育環境に育ったのかを知らない。ただ著名な文芸評論家ということしか知らない。しかし、本書を通して窺われる著者像は、毒キノコのように毒々しいまだらもようの怪物『マタンゴ』を前に、ワクワクしながら眼を輝かせるかつての少年である。いまでいうアニメ大好きの“オタク”少年といったところか。もちろん、オジサンになった批評家川村湊も書き手として窺われるのはいうまでもないが、それでもこの著者があくまで同一化しようとするのは、“庶民”であり、自己規定は“庶民としての自分”である。「われわれ庶民がもたなければならないのは(略)「こわがる心」を大事にしなければならないということだ」(121頁)。
 「あとがき」にはこんな言葉もある。「それよりも私の“怒り”は、私自身の内側に向けられなければならなかった」(200頁)。原発事故が起きて、なによりも怒りの矛先をぶつけたのは、『ゴジラ』や『マタンゴ』等々とともに生きてきたかつての自分自身だということだ。だから、本書は、大人になったひとりのひとの子ども時代の自分との対話でもあるのだ。おそらくそのときイメージされる自分とは、徹頭徹尾“庶民”であるし、依然として批評の言葉を持たないじぶんだったに違いない。
 なるほど、本書は、著者が自分の好きな作品を選んでそこから勝手に戦後史を描き出した、そう言うひともいるかもしれない。実際そういうレヴューがある。百歩譲ってそれを認めたとしよう。しかし、かつてのじぶんと向かっている以上、著者自身にとって、確実に意味のある本には違いない。そして、まったく誰の為に書いているかわからないようなそれでいて独善的な文章よりも、こんな風にじぶんじしんに向けて書いた言葉のほうが私にははるかに魅惑的である。
 




 とまあこんなレヴューを書いた。ここに書いた事で、川村湊への驚き、あるいは想像とのギャップに関しては、ほんとうのところ、直接会ったときの印象が一番強い。


 実を言うと、川村湊氏の講義に私は出席していたことがあり、そのときの印象を、当時自分が所属していたゼミの先生であった、島田雅彦先生に話したことがある。


 そのとき私は、川村湊を酷評した。 あんなにつまらない授業はないし、どうしようもない、と島田センセーに言ったところ、そこで意外な反応が返ってきた。 センセーは私に、具体的にどこが問題なのかをきいてきたのだ。

 
 それで私は授業のつまらなさをとうとうと語ったわけだけれども(要するに教育者としてクソだと言ったわけだ)、どうやらセンセーが関心を持っていたのは、川村湊の書くものについての意見だった、それに後から気がついた。

 
 そのときわかったのは、センセーは川村湊に一目を置いているということだった。


 ただ当時の私は、くだらない授業とは、教員の怠惰だと思っていて(というかいまも思っているが)、もうその時点で彼の書くものを読む気をまったく失くしてしまった。


 けれども、今回読んでみて、ああ こんな人だったのか、とある意味で勝手な発見をしたわけである。


 だから、このレヴューも自分の偏見が覆っただけというのが裏にある。


 そんなところ。

2014, 10/19 エイシンヒカリと魔法がつかえないなら。


 引き出しに散らばっていた、百円玉を9つ無造作に掴んでポケットに入れて、15時前に、府中の競馬場に着いた。
 子どもたちと親たちがたくさんにぎやいで、なるべく誰にも見られないように、誰にも見られないように、スタンドへと消えていく。

 目当ては、エイシンヒカリという馬。その馬が出走するアイルランドトロフィーが15時30にスタートして、エイシンヒカリは、一頭後続を5馬身近くだろうか、置いてけぼりにしながら、かつてサイレンススズカが散った、あの3コーナーをすぎて、タイムを見ると、1000メートル58秒ほどで、サイレンススズカと同じように、つんのめってしまわないか、心配になりながら、4角に彼がつっこんでいくのをみていた。エイシンヒカリは、先頭で内ラチ沿いを走ってきたにもかかわらず、僕がいるスタンドのほうに、とんでもない勢いで、突進してきたように見えた。なにが起きたのかがまったくわからなかった。唖然としながらも、その後を追うと、どうやら、エイシンヒカリが先頭でゴールした。常軌を逸した、右斜めへの斜行しながらだ。 僕は、絶対にエイシンヒカリが勝つと思っていたけれども、じぶんの手に握り締めた馬券、エイシンヒカリを3着に固定して、三連単を買ったその馬券を、見て、ぁぁ と悲しい声を出して、やぶり捨てた。

 エイシンヒカリが勝つだろう。けれども、奇跡は起こるものだ。サイレンススズカも死んだこの東京2000メートルの単騎逃げ。そんなのどれほど信じたくてもさすがに持つはずがない。というこの奇跡にかけなければ、「配当的にまったく面白くないレース」となってしまう。


 そして、その奇跡は起きなかった。でもサイレンススズカのように、死なずに、ゴールしたのでほっとした。


 
 あの斜行、あれはいったいなんだったんだろうか。


 そう思いながら、競馬場を後にしようと歩いていると、さっきyoutubeで聴いた、大森靖子の「魔法が使えないなら」が脳内を流れてきた。


  



 でも、こんなメランコリックな夕方に、大森靖子のこの曲は、ほんとうに堪える。


 僕はこの子を殺してしまいたいと思った。


 魔法が使えないなら死んでしまいたい、その想いは、ちょっと毒づいたおしゃれさで、どうみても20代半ばの大森が、岩井俊二の映画に出てきそうな少女がヒステリックに泣き叫ぶかのように、にもかかわらず卑猥ないでたちで、”魔法が使えないなら、死んでしまいたい”と幻想的に叫ぶとき、幻想が続かない事を身をもって感じているこの夕方では、どうしたら正気を保てばいいのか、わからないじゃないか。


 まともなことを考えないといけない。だから、友人の選挙の事を考えた。


 けれども、結局考えていたのは、”僕”についてだった。


 普段、じぶんは、日常的には「俺」と使ったり、ときには「僕」あるいは「私」とときと場合を使い分ける。

 
 競馬場のようなむさいところには、「私」か「僕」が合う。「俺」だとか「ワシ」だなんて言い始めたら、ろくでもない人間のろくでもなさとまったく距離感がつかめずそこに埋もれてしまうじゃないか。


 友人が選挙に出るみたいで、もしそれを手伝ったとき、じぶんは「俺たち」と語ることができるだろうか。 無理だろう。その響きに耐えられない。


 そもそも「俺」とじぶんを示すことができるのは、そこに寄る辺なさがあると思えるからだ。


 もちろん、それでもどこか傲慢さをじぶんに感じたりもする。


 だって、じぶんは、この日本社会では、ヘテロの、比較的裕福な家庭に育った「男性」に過ぎないからだ。


 強いていえば、じぶんは、非正規雇用労働者、とブラックが騒がれる中、雇用関係においては弱者と一般的に言われる立場にいる程度だろう。


 客観的に見たときに、マジョリティのじぶんが「俺」と言うとき、それは時に傲慢ではないか?


 でも、これは伝わらない、それでもどうしてかろうじて使う事ができるかそれは、やはりじぶんが生い立ちのなかで、”じぶんとはいったいなんなのか”、”じぶんは父や母にとってなんなのか”、”じぶんはなんのためにうまれてこなければいけなかったのか”、それをずっと感じてきたからだ。


 そんなおのれさえさだまらない人間が、どうしてその他の「俺」”たち”を担わなければならないのだろう。


 そんな風に思うとき、大森靖子が、どうして”魔法が使えないなら死んでしまいたい”などいえたのだろうと、よくわからなくなる。でもしかたないのかもしれない。女らしさや、性を売り込むことができなければ、それこそほんとうに絶望なのだけれども、そんなことを向こう見ずに酔うことなしに叫ぶ事などできないからだ。それとも、大森靖子は、ほんとうに死ぬ気なのかな。から元気で、なりふりかまわずのたうちまわる彼女なりの仕方なのかな。でも、だったら、なんで「だってもともと自由なんだから。社会と関係なく自由でいればいい。世界は楽しいじゃん、ってずっと思ってる」*1だなんて言ったんだろう。


 力強さ、か。絶望的に力強くなりたい。けれど、それもまた信仰だろうか。

 
 
 

 

足元の耳で聴く、貝の歌――金子光晴、東南アジア的土着性、存在感情

 「題名のない残念会」*1という友人が主催のラジオに参加させてもらい、金子光晴について少し語った。そこでは緊張と、緊張をはぐらかすためのお酒で、うまく言いたい事をいえなかったり、終わってすぐ気付くちょっとした間違いもあったこともあって、さらに後から言いたかった事がより整理されてきたり等々あり、改めて文章化してみることにした。

 そこで紹介したのは、次の二つの詩だ。(ただし、「貝」も本来旧漢字であり、しかし私のパソコンでは打てなかった。いくつかそういう箇所はあるがご容赦いただきたい)

貝の歌(『鬼の児の唄』(第二次大戦中に書かれ、1949年末刊行)より)

貝が貝をうみ
灰ばんだ海は
ぬか袋のやうにふくらむ。

貝がらが
貝がらに、
かぎりなく重なる
ざくざくな道。
空は、その小さな殻がひらく
まづしげな菫色。
ああ、なんといふもの淋しげなけしきだ――。

さしくる潮は
殻のうへをわたり
しうんと湖水は吸はれ
はかなくのこる泡、泡、泡、
なんといふむなしいそのくり返し。

竹とんぼは落ち、
一国の虚栄は
老薔薇色の重油とともに
漂流し去つた!

だが、貝どもはのこる。
貝が、貝をうみ
はてしもしらず。

夜ごと
泥のなかの貝は
二枚の貝をひらいて
きうと泣く。
ねむさうな目をして
月は、
泥と遊ぶ。

雨(『蛾』より)

むすぼれた雨が
しづかに林に湧き
苔みどりの湖に
白い繭をかける。

吸入器の噴霧のやうに
いがらつぽい
毒つぽい雨。

ぱらぱらこぼれてくる
葉のしづく。
葉うらにびつしり
貼りついている蛾の卵。

青虫を餌食にして、
草や木は青々とひろがる。
裳(も)のやうに。
袖のやうに。

ぬれた草を倒して
ふみぬいたパンツのやうに
蛇が這う。
パンツをぬぐ腰のやうに。

あまり長雨がつづくので
僕のこころは水びたしだ。
そらにも大きな
壁じみができた。

浮袋よ。どこかへ浮かびあがらせろ。
毎日、頭をおさへつける
こんな周囲から、
あつちもこっちも浮腫だらけだぜ。

生きているといふことは何ですか。先生。
君、それは何かでふくれてることだよ。
では、わるいことなんですか。
ふん。まあ、うつたうしいことさね。

ぬれた障子。
しとつた畳に座つて僕の魂は
生きていればこの偏執と食欲と、
青かび、黒かびに蔽はれている。

こんな日にはまつたく
男だって懐胎しますよ。
きこえないのか。この胎動が
罪の児がうごいているのが。

(昭和20年7月)

 まず、「貝の歌」についてだが、これは『鬼の児の唄』という1949年刊行の詩集に収められた詩のひとつであるが、書かれたのは、第二次世界大戦中。ただ、ラジオでは、仏領インドシナに滞在したときではないか、と述べたけれども、実は、『鬼の児の唄』に収められた詩の書かれた年がそれぞればらばらである以上、なぜこれが仏領インドシナと特定できたのか、触れておかねばならない。実際100%仏領インドシナだと言い切ることはできない。ラジオではこれについて触れられなかった。
 実際、「貝の歌」のすぐ前の詩は、「血」であり、これまた描かれているのは海である。しかし、その詩の終わりには「7/10 サイパン玉砕の報に」と書いてあり、サイパン島が陥落したのが1994年であることを考えれば、日付が記されていない「貝の歌」が同じくサイパン島を念頭において書かれた可能性だって否定はできない。
 しかし、最初私が読んだかぎりでは、仏領インドシナだと思った。なぜなら、「貝の歌」が登場する前の詩には、どれも日付が必ず明記されているが、最初から読んでいって初めて日付が明記されていないのが「貝の歌」であり、そうすると、“ではどこで書いたのか”という問いを持ちながら、次の詩「風景」を読むことになる。で、「風景」の終わりには、「昭和17年(1942年)9月」と明記してあり、その上、「風景」でもまた海が語られ、「菫色」が言及されていて、普通に読むと、「貝の歌」のイメージと結びついていき、すると、当然「貝の歌」も1942年9月に書かれたと思うことになる。
 そして、全集15巻の「年譜」によると、1942年、1月、国際文化振興会の属託として、彼の妻森光千代に日本夫人文化使節招誘がきて、光晴も仏印に飛んでいる。そして、帰国後と思しき7月に「海」に発表し、9月に「風景」を創作したと記されている。よって、「風景」同様、「貝の歌」も、仏印と考えるのが妥当だ。しかし、「風景」というタイトルの詩は、『落下傘』に、それも「海」とともに収められていて、では1942年9月に書いたのはこちらの「風景」かと思わなくもない。100%言い切れないと言ったのはその意味でである。しかし、そちらには年月が書かれていない。なので、仏印と判断するのが妥当だろうと。


 とはいえ、海の場所が仏印なのか、あるいは日本のどこかなのか等々、その海の場所の特定が「貝の歌」の詩をとおして重要かどうかといえば、そうではないだろう。むしろこの「貝の歌」の入った『鬼の児の歌』、そして『鮫』や『落下傘』、『蛾』、『女たちへのエレジー』に納められた詩を、それら全体がかもしだすイメージとして把握することが重要である。しかし、そう考えたときに、同じく海や、あるいは「雨」も含めて、散々金子が水にまつわる詩を書いているとき、そこで喚起される土壌が今度は仏印という局所的なものではない仕方で、浮かび上がってくるだろう。それは、東南アジア的風土、東南アジア的土着性といっていいものだ。
 ラジオで、つい雨の経験や海辺での経験と言うのはある種の「普遍性がある」と言ってしまったが、むしろ、アジアに土着する人間どもにとっての普遍性と言うのが適切だ。

 ところで、私はアメリカのミシガン州に夏から冬にかけて滞在したことがある。そのとき、私が雨が降ってきて、とっさに日本から持ってきた傘を差して外へ出かけ、そして帰ってきたときだ。それを見かけた同じ寮の友人のアンドリューは、私にこう言ったのが思い出される。

Chihiro, 日本人はどうして傘を差すんだ?


この問いに困惑して、思わず私はアンドリューに、「いや、むしろなんでアメリカ人はかさをささないのか」ときいたことがある。すると、

It’s cool.

というふざけた答えが返ってきてさらに困惑したことがある。つまり、同じ雨でも、カナダにほど近い内陸部のアメリカに位置するミシガン州では、小雨程度にしか雨は降らないのに対して、日本や、そして東南アジア圏では必ず雨季と称されるほどの、大降りの雨が降る。だから同じ雨でもその雨の意味やそれへの対応から植え付けられた動作や習慣は異なって当然なのだ。ミシガンに住む彼らにとって小雨程度雨は、パーカーのフードでしのぐに限る。それがcoolなのだ。けれども、梅雨を経験する私や金子にとっては、雨は、当然、ときにむしむしと感じさせもすれば、突然襲ってきて、交通機関は麻痺し、足元はびちゃびちゃになって、何もする気が起きないといった(実際先週、つまりは2014年10月頭の台風でそうなったように)感慨に陥らせるほどのものだ。傘はさして当然である。
遊びで書いた指文字さえもすぐにその波で覆い尽くしてしまう、いわば海岸の波にしても、雨同様、どこかここではひとを受難の経験にいざなう。金子のこのふたつの詩からは、そうした雨や波という、ひとつの受難への諦めのような感慨が、それが逆に露にする生命の充溢や繁茂の念とともに浮かび上がってこないだろうか。
 とはいえ、それでも同じ日本でも、あるいは同じ日本の詩人であっても、皆が皆、雨や海辺に同様のイメージを持つわけではないことを忘れてはならない。たとえば、宮沢賢治などどうだろうか。賢治といって思い浮かべるのは、かの「イギリス海岸」である。けれども、そこで「海岸」は、こんな風に語られている。

夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云いへず青白くさっぱりしてゐました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕あとや、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠かむってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした(宮沢賢治「イギリス海岸」青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4417_9667.html、太字筆者)。

いわば、本当は北上川に来ているのに、その土壌の質からしてまるで、イギリス海岸にいるかのように幻惑しているのだ。賢治は、ある種の科学者の眼を持っているひとで、当然、河原にいても、その地質や落ちている石等土壌に関心を持つ。もちろん、「イギリス海岸」は詩ではない。では、次の詩はどうだろう(とはいっても賢治は、「詩」ではなく「心象スケッチ」と言うだろうし、その方がしっくりくるが)。

〔つめたい海の水銀が〕
                    一九二四、五、二二、

つめたい海の水銀が
無数かゞやく鉄針を
水平線に並行にうかべ
ことにも繁く島の左右に集めれば
島は霞んだ気層の底に
ひとつの硅化花園をつくる
銅緑〔カパーグリン〕の色丹松や
緑礬いろのとどまつねずこ
また水際には鮮らな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みんないっしょに酸化されまた還元される
宮沢賢治春と修羅 第二集」『宮沢賢治全集1』より)

他にも「河原坊」という詩もあるが、そこでもやはり、科学と風景、とりわけ化学と風景とを融合させるような描き方がなされているのは、「つめたい海の水銀が」同様だ。これは、やはり彼の科学への志向も一因だろうが、そこには風土の違いあるように思えてならない。賢治には、夏には”寒さ”で農作物の不作を時には経験する、東北は岩手の風土がある。つまり、金子からは、東南アジアの湿潤な多雨地帯の海岸沿いをバックボーンとして、どこか低い、腐臭がするような海辺の貝殻や雨ざらしの葉裏にびっしりと繁茂する蛾の卵を通して、生物と土壌が迫ってくるように感じられるのに対して、宮沢賢治からは、東北岩手花巻をバックボーンとして、海は海でも太古から脈々と堆積するゆるぎない鉱石鉱物が、ときには「グスコーブドリ」で噴火する火山に見られるように、高みから迫ってくる、そう言ったら言い過ぎだろうか。どっちがいいという問題ではもちろんない。私は「河原坊」が実際大好きだ。
しかし、金子の水にまつわるイメージを考える上では、彼が旅をした東南アジアのモンスーン地帯、熱帯雨林地帯がその土壌となっているということは重要だろう。



 もう一点、ラジオでは、金子の詩を、もう「反戦詩」みたいに読むのはいい、というようなことを言ったが、矛盾するように、反戦詩としても読めるとも述べた。じゃあ反戦詩として読める部分を無視したいのかといえばそうではない。
 私がいやなのは、どうも反戦だからこんな詩を書いた、というような、この“だから”の部分にある。これは、詩と政治性の問題に絡むが、私の考えは、吉本隆明が「詩人論序説」で語った次の言葉を、改めて繰り返せば事足りると思う。

社会には、詩で解決が考えられるような課題は、何一つ存在しないということである。小は、一本の万年筆をつくることから、大は社会を変えることまで、詩によって解決できるものは、この社会には存在していないということである(『吉本隆明全集6巻』84頁)

 しかし、じゃあ批評にそんな意味があるかと考えているかといえば、そうでもない。いずれにしても、そこらに生きるひとびと(わたしもそこに含まれる)にとって、言葉が力を持つということが大事で(それを吉本的な言い方をすれば、人民への権力の委譲とでもいうべきか)、変な具体的で矮小化された(いわば投票行動のような)「政治」的行動との関係などどうでもよい。これについては書き始めると長くなるから、尻切れトンボで放置しよう。


 いずれにしても、なんか、こういう“だから”の接続詞が嫌いなのである。でも反戦を否定するわけではない、それはどういうことか。つまり、いわば金子には、生きていることとは、うっとうしい、という存在感情、情態性のようなものがあって、それがなによりも反戦に彼をさせているということだ。もちろん反戦にだけではなく、唯一えろにもさせているわけだろうが。この違いは実は決定的で、最初にあるのは、けだるさや、諦め(しかしこの諦めは生命の豊穣さ、人間の営みを消し去っても繁茂する力強さへの諦めでもある)であり、“反戦”みたいな政治的信条がまずあるというわけではないのだ。政治的信条が先にあるということは詩にとっては逆を言えば致命的だ。政治的信条がなければ詩を書けないっていうことさえありうるわけだから。


 しかし、存在感情、なんかいまじぶんが生きているその感じ方、情緒というのは、いわゆる「政治」が問題にならずともいつだってどこだってある。なくたっていいと良く思うけれどもあるんだから仕方がない。おそらく、金子は、だから、ただでさえけだるくてめんどくさい生(うっとうしい)なのに、よりいっそう戦争だなんて、わずらわしいことやめてくれ、ということでしかない。“ことでしかない”けれども、これは決定的ではないか。
 存在感情は、まあ金子のようにけだるく感じていない人でも、もっとポジティブな形でもありうるだろうし、そのポジティブさやネガティブさの中ではじめて、言葉に戦争的な主題が表れざるを得ないだけの話であり、その逆ではないということ。

 主として改めて言いたいのは、だから、金子を読むときになにより感じるのは、1. 東南アジア的風土と、2. うっとおしい存在感情、だということ、そしてこのふたつが、「貝」に歌を歌わせているということだ。

 きう というその声。しかし、不思議ではないか。どうして、その声が聴こえてくるのだろう。けだるい存在感情と、この東南アジア独特の風土の中で、金子は、まるで、足元で世界を見て、嗅ぎ、聴いているかのようである。そうでなければ、どうしたら、鼻につくような足元のつんざく匂いや、それこそ貝の声を聴くことができるのだろう。

シェイクスピア『オセロウ』

 かつて書いた文章で、なぜかupしないままになっていたのがあったので、どうせなら、あげておく。以下。

オセロウ (岩波文庫)

オセロウ (岩波文庫)


 岩波文庫版の菅泰男訳の『オセロウ』を読んだが、とても素晴らしい。訳もほんとうにいい。

 テーマとしても、モーリタニアあたり出身の黒人の男と、妻である白人の女性との関係が、ひとりの男の策略によって、嫉妬の火をくべられたことによって、崩れていく悲劇であり、人種差が根強く残っていると想定できるテーマ設定で、20世紀的でもある。

 『オセロウ』は、訳者の解説によると、単なる嫉妬の悲劇ではない。というのも、オセロウは、嫉妬深い男なのではなく、あくまで疑り深いから疑うのであり、彼が余りに人を信じやすい故に起こる悲劇である。だからオセロウの苦悩の深い源は「信仰と愛との破滅」なのである。

 しかし、だとすると、どうしてあんなにも簡単にオセロウは、愛する妻ではなく、イアーゴウという男を信じてしまったのだろう。訳者が指摘するような、疑り深さと[人に対する]信じやすさというのは、どのようにして両立するのだろうか。普通に考えたならば、両立し得ない。疑り深い人は、人をそう簡単には信じないのではないか。

 考えてみると、オセロウは、実に合理的な懐疑心を持っており、だから彼を人間であれば誰でも信じる、あるいはそれまで親しくしていた仲間であれば[仲間としてのイアーゴウ]信じてしまうというようなナイーブな人間ではない。たとえば、オセロウは、最初、イアーゴウに対して「やい、貴様、おれの妻は淫売だときっと証明しろ。きっとやれ。目に見える証拠を出せ」(115頁、360あたり)と言う。結果的には、イアーゴウがオセロウが妻にプレゼントしたハンカチを、キャシオウという男が手にするようにしかけ、キャシオウが手にするハンカチをオセロウは目の当たりにして、キャシオウと妻とが不倫したと確信する。

 だから、そうすると、このイアーゴウという人物が、あまりに悪巧みだったが故に、オセロウはだまされてしまったということになる。すると、オセロウは、きわめて健全な懐疑心を持ちながらも、あまりにあくどい男にだまされて、妻をも殺してしまったのであり、『オセロウ』とは、どうしようもない仲間か部下をもってしまった、上司の悲劇となるだろう。

 しかし、そんな解釈は、大変つまらないものではないだろうか。

 むしろ、私は、イアーゴウとは、『オセロウ』における隠れたる神ではないか、という仮説を提起してみたい。訳者の次のような指摘は、この仮説を支えうるだろう。「この劇のすべての人物がイアーゴウを信じ、彼にだまされている」。
 実際、イアーゴウの妻の言動はとても興味深い。イアーゴウと妻とのなれそめなんて当然語られないので基本的に二人の関係は物語の中で謎に包まれているわけだけれども、イアーゴウの妻もまた、オセロウの一件で、イアーゴウの本性を知ったひとりなのである。彼女もまた、神的ななんらかの存在に騙されて翻弄される悲劇を経験するのだ。オセロウの妻のハンカチを拾ったのは、イアーゴウの妻エミーリアであるが、彼女は、まさかオセロウとオセロウの妻・デズデモウナとの仲を引き裂くために、使われるだなんて思ってもなかった。そして、その罪業に自分が加担していることに、デズデモウナの死を受けて気づいた時、エミーリアは、こう叫んでいる。


極悪だ、非道だ、なんて悪いことを!
思い当たるわ、思い当たる。変だった。ああ、ひどり!
あの時そうじゃないかと思った。――ああ、やるせない、生きてられないわ――
なんてひどい、悪いことを! 190-195 194頁

普通に考えて、自分の夫が悪事を働いてそれに知らずに加担されていたとしても、なんら妻に、咎や罪があったとは思われないし、皆、どうして気付かなかったのだ、と非難することこそあれど、彼女に死をもって償いをせよとは、誰も言わないだろう。しかし、彼女自身が自分に宣告したものこそ、この死の償いなのである。エミーリアは、デズデモウナに語りながら死んでいくのだ。

あの歌が、前知らせになりましたのねえ、奥様。
ねえ、聞こえますか? わたしは白鳥のように
歌いながら死にますわ。[歌う]柳、柳、柳よ――
ムーア様、奥様は純潔だったんです。あんたを愛していらしったのに、むごいムーアさま。
こうしてわたしの魂は天国へ。本当のことを言ったのですから。
こうして思ったことを言いながら、わたしは死ぬ、死んでゆきます。
250前後 198頁

「柳」は、失恋をしるすものであり、単にデズデモウナの代わりに歌っているというよりも、むしろおのれじしんの失恋をも歌っているのだろう。だから、じぶんが慕っている友にひどい仕打ちをしてしまったからというだけで、死んだのではない。彼女は、じぶんの想いの喪失が死に値するとも同時に感じているのだ。
 イアーゴウに騙されて身銭を使い果たしてしまうロダリーゴウというヴェニスの紳士にしても、イアーゴウにそそのかされたロダリーゴウに殴りかけられ暴動を起こし免職されるキャシオウにしても、同様である。みながみな、イアーゴウの索術に踊らされている。まるで、『オセロウ』は、差し出されたコース料理をイアーゴウという男が平らげる物語のようである。もちろんオセロウは、そのメインディシュである。
 

 イアーゴウは、神ではないのか。どれほど疑り深い人でも、その存在を信じざるを得ない、隠れたる神なのではないか。