川村湊『原発と原爆 「核」の戦後精神史』

原発と原爆---「核」の戦後精神史 (河出ブックス)

原発と原爆---「核」の戦後精神史 (河出ブックス)



 本書を読んだ。そいでamazonにレヴューを書いた。以下そのレヴュー



あまりにひどいレヴューばかりなので、じぶんもレヴューを書くことにした。
 
 本書は、1951年網走生まれの、もはや大御所的な文芸評論家・川村湊による、「核」エネルギーを巡る表象分析・批評の書である。現在(2014年10/28)本書に対する3つのamazonのレヴューが確認されるが、それもどれも☆みっつの比較的凡庸な評価に留まっているが、その評価の一因には、読者はタイトルに惑わされて、“原発と原爆”に関する一貫した批判が展開されると思って読んでいることがあるように思える。そのため、「遠回りな脱原発の書」というレヴューや、「「核」と戦後サブカル史というのが適当か」といったレヴューが登場している。おそらく、もっと直接的に脱原発を主張すればいいではないか、というのがこれらのレヴューの本書に対する批判だろう。
 しかし、それは本書を理解し損ねているといわざるを得ない。そもそも、私が本書を手にとって読み進めていって驚いたのは、著者の川村湊氏がここまで政治的な主張を押し出し貫いて表象分析を行っていたことだった。ただもちろん、それは私が川村氏の著作や評論をあまり読んでいないことからくる誤解と言う可能性も否定は出来ない。それでも、『徒然草』に関する論文で群像新人文学賞を受賞し、基本的にオーソドックスな文学研究・評論に従事してきたその著者が、あからさまに現在著者が持つ「脱原発」という主張を軸にして、過去のそれもいわゆる「サブカルチャー」と揶揄される漫画・映画・小説(それも「純文学」ではない小説)を一刀両断していく様は、驚きといわざるを得ないし、そこにこそ本書の価値があるように思われる。
 そもそも、どうして「ゴジラ」や「鉄腕アトム」から、原発と原爆について語らなければならないのか。それは、これらのその時代を生きた人であれば誰も(すくなくともその多く)が精通している作品を通してしか、被爆から平和利用へと日本が歩んでいく過程で、有名な著述家や思想家等々ではない、ただ生きてへたすれば思想を表現することなく死んでいく、市井のひとびとの思いというのは、掬いあげることなどできないからではないか。それを見ずに“遠まわし”などと言うのであれば、自分が読むべき本を取捨選択することができずにただ適当にタイトルから本を選んでいるといわれても仕方がないだろう。
 私は著者がどんな階層の、どんな生活水準の、どんな生育環境に育ったのかを知らない。ただ著名な文芸評論家ということしか知らない。しかし、本書を通して窺われる著者像は、毒キノコのように毒々しいまだらもようの怪物『マタンゴ』を前に、ワクワクしながら眼を輝かせるかつての少年である。いまでいうアニメ大好きの“オタク”少年といったところか。もちろん、オジサンになった批評家川村湊も書き手として窺われるのはいうまでもないが、それでもこの著者があくまで同一化しようとするのは、“庶民”であり、自己規定は“庶民としての自分”である。「われわれ庶民がもたなければならないのは(略)「こわがる心」を大事にしなければならないということだ」(121頁)。
 「あとがき」にはこんな言葉もある。「それよりも私の“怒り”は、私自身の内側に向けられなければならなかった」(200頁)。原発事故が起きて、なによりも怒りの矛先をぶつけたのは、『ゴジラ』や『マタンゴ』等々とともに生きてきたかつての自分自身だということだ。だから、本書は、大人になったひとりのひとの子ども時代の自分との対話でもあるのだ。おそらくそのときイメージされる自分とは、徹頭徹尾“庶民”であるし、依然として批評の言葉を持たないじぶんだったに違いない。
 なるほど、本書は、著者が自分の好きな作品を選んでそこから勝手に戦後史を描き出した、そう言うひともいるかもしれない。実際そういうレヴューがある。百歩譲ってそれを認めたとしよう。しかし、かつてのじぶんと向かっている以上、著者自身にとって、確実に意味のある本には違いない。そして、まったく誰の為に書いているかわからないようなそれでいて独善的な文章よりも、こんな風にじぶんじしんに向けて書いた言葉のほうが私にははるかに魅惑的である。
 




 とまあこんなレヴューを書いた。ここに書いた事で、川村湊への驚き、あるいは想像とのギャップに関しては、ほんとうのところ、直接会ったときの印象が一番強い。


 実を言うと、川村湊氏の講義に私は出席していたことがあり、そのときの印象を、当時自分が所属していたゼミの先生であった、島田雅彦先生に話したことがある。


 そのとき私は、川村湊を酷評した。 あんなにつまらない授業はないし、どうしようもない、と島田センセーに言ったところ、そこで意外な反応が返ってきた。 センセーは私に、具体的にどこが問題なのかをきいてきたのだ。

 
 それで私は授業のつまらなさをとうとうと語ったわけだけれども(要するに教育者としてクソだと言ったわけだ)、どうやらセンセーが関心を持っていたのは、川村湊の書くものについての意見だった、それに後から気がついた。

 
 そのときわかったのは、センセーは川村湊に一目を置いているということだった。


 ただ当時の私は、くだらない授業とは、教員の怠惰だと思っていて(というかいまも思っているが)、もうその時点で彼の書くものを読む気をまったく失くしてしまった。


 けれども、今回読んでみて、ああ こんな人だったのか、とある意味で勝手な発見をしたわけである。


 だから、このレヴューも自分の偏見が覆っただけというのが裏にある。


 そんなところ。