6/25朝
(有性生殖をする)生命というのは、性的である。性的である、それは性的欲望を、すべて多かれ少なかれ倒錯的な仕方でいかなる「正常」な仕方を伴うことのない様態において、抱え込んでいるという意味で徹頭徹尾性的である。しかし、それが、必ずしも、ドメスティックな関係性の中での暴力につながるとは言えない。
生命は、(非目的論的な観点における)「進化」の過程で、このように語る知性を備えたヒトが現れてくる。いまこのように語るワレ、ここが現在の定点である。そこから、われわれはどこにいくのか。そこから、われわれが、どんな飛躍を行うのか。
しかし、それをいかなる仕方で「知性」が把握しうるのか。
「知性」が把握する、そしてそれを予測しうる、というとき、そこには必ず、「知」が「肉体」と同じ仕方で作動していなければならない。
ここには、「知」は、果たして、動作の結果なのか?という疑念を振り払う必要がまずもってある。
知と行動を一つにするということ。
しかし、そこでいう「知」にとっての対象は、もっといえば世界は、知によって知的に理解されうる、なにひとつ偶然的なものの存在しないものでしかありえない。
もし世界が、偶然的なものである、なにひとつどんな把握しうる根拠を持たない形で生成するものである場合には、知は如何なる仕方で世界を把握しうるのか。
哲学者たちは、ことあるごとに「驚異」の感情を発していた。世界が、まさにこのようにして存在することに、驚きの情感性を抱いていた。 世界がどうしてなにもない(無)、存在しないのではなく、世界があるのか? 世界はどうして存在するのか?
私が知っていることは、なぜ存在しなければならないのか?
なぜ、知るのか?
もし世界に偶然的なものがなにひとつないのであれば、私たちはこの世界で起きることになぜことあるごとに驚くのか?
なぜ「決断」なる言葉が存在しうるのか? 決断とは、ただ、決断しえないものを、ほんとうであれば断ち切りたくないものを諦めるという情動性の行為であるにもかかわらず。決断とは、世界が未知であるがゆえに、判断の付かないその徹頭徹尾未知との遭遇としてしか言い表しようがないものにもかかわらず。
このようにして語る「私」はいったいなんのか?