「表現としての飲酒――AA誕生時に見られる自覚の伝達を巡って――

 先日、脇坂真弥さんの「表現としての飲酒――AA誕生時に見られる自覚の伝達を巡って――」という論文を読みました*1。この論文を手にした理由は、なにかに依存せずには“生きられない”という状況をこの論文は扱っているからです。私は、生に否定的に付きまとう状況(自殺であったり、自暴自棄であったり、依存症etc…)を通して、いったい生きるとはいったいなんなのか、生とはいったい何を求め、何を追求するものなのか、を考えたい。その一環の一つであります。

この論文は、私の生にまつわる思考に大きなインスピレーションを与えてくれました。今回は、まず第一に、この論文がどのようなことを扱っているのか(1)、第二に、この論文が何を前提としているか(2)、ということを検討します。

1. 表現としてのアルコール依存
(1)「無力」と依存症の関係

この論文は、アルコホーリクス・アノニマス(無名のアルコール依存症者たち:AA)というグループに属するアルコール依存症患者たちを扱っています。AAは、「具体的な過去のトラウマや個人の性格の弱さに病気の原因を求めることを避け、「酒に対する無力の自覚」に基づいて、病気で苦しむ当事者同士の助け合いによって回復」を目指すグループです。
面白いのが、この論文が中心にして取り上げている患者のビルに、「自分が飲まずにいるためには、他のアルコール依存症者を助ける必要がある」という姿勢が見られ、AAの公式文書にも「他のアルコール依存症者と徹底的にかかわっていくことほど、再飲酒を防ぐ保障になるものはない」と書かれている点です。ビルは、自分自身が助かるためには他者を助ける必要があると考えているのです。このような在り方を、脇坂は、アルコールに対する患者の、表現としての「利己的な態度」と捉えています。
「表現」とするところに、この論文の着眼点の明晰さがあると思います。すなわち、依存症患者の本質とは、アルコールに対する無力であります。お酒を過剰に摂取するというのは、ひとつのアルコールに対する無力の表現と取ることができます。すなわち、ビルが取っている態度は、新しいその表現なのです。アルコールに対して無力であるが故に、他者を助けることが私の生に必要なのです。
このような脇坂の捉え方は、裏を返せば、アルコールに対して無力でなければ、他者を必要としないということです。彼らは利己的に他者を必要としている。利己的に他者を救済する。問いをもたげたくなるのは、他者を助けることでアルコールを飲まずにい続けられるのであれば、それは「無力」ではないのではないか、ということでしょう。
しかしながら、「無力」なのは、自分一人では、アルコールに対してなにひとつまっとうに自己を支えることができないという点にあります。

(2) 他の事象への適用可能性
 私は、依然、NHKの番組で、「セックス依存症」患者の事例に触れたことがあります。ある女性患者は、過去に男性によって、レイプされた経験があり、その経験から、継続しない男性との肉体関係に走り、そして風俗店で働くようにまでなります。なぜ、レイプされて男性を拒絶する方向に行くはずなのに、逆に男性を求めるという方向に行ってしまうのか? そんなことがありうるのか? けれども、ありうるのです。すなわち、男性にいつなんどきまたあのときのように肉体を支配されてしまうかもしれない、というその恐怖ゆえに、自分から男性を誘惑し、自分の思う通りに相手を動かそうとする。支配されないために、支配しようとする。これが、この事例に対する番組内での分析におけるその答えでした。
これを当論文と絡めれば、自分自身の男性に対する「無力」さの念が、セックス依存症という表現となって現れてくるとうことです。正直言って、同じ依存症とはいえ、「セックス依存症」のとりわけこの女性の事例にそれを適応するのは心苦しいものがあります。なぜなら、力でもって肉体を強要されたという経験、その際に自分自身はなにひとつ抵抗さえできなかったということが、その「無力」さを構成しているからです。それは、私にとっての無力でもあります。もちろん、これを読むあなたにとっての無力でもあります。なぜなら、私たちはそのような暴力に対して、いかにして「抵抗」が可能でしょうか。私にすこしの筋肉があれば、無力でなかったと言えるでしょうか。そう考えるならば、無力と言うには適しません。彼女のセックス依存症が表現となるのは、したがって、「無力」なるオブセッション(強迫観念)に由来します。「無力」でないよ、あれはあなたでなくても誰だってあなたと同じようなつらさを経験するものなのよ、そう説得しても、彼女の恐怖は払しょくできないのですから。

(3)その限界 把握すべきこと
このように、ある事柄に対する無力の表現として生を捉えていくパースペクティヴは、様々な事象に適用ができます。ただし、決してそれが万能ではないことに留意する必要があります。つまり、事象を「表現」に還元することで、それによって覆い隠される部分があるということです。つまり、先ほどの例でいえば、NHKの番組の分析における男性によるレイプに対する自己の無力さと、「セックス依存症」を厳密に因果関係で結ぶことは困難であるということです。そこに因果関係を認めることになるのは、レイプに対する自己の無力さに、「セックス依存症」とは別の表現を見出すことができた瞬間です。その女性が単に知識だけでなく、「依存症」の意味(=レイプに対する自己の無力さ)を自覚した瞬間であります。AAに戻れば、把握すべきは、ビルが「アルコール依存症」の意味(=アルコールに対する無力)を体感し、その無力さに正対するには新しい表現が必要だということ(=自分自身が助かるためには他者を助ける必要がある)を自覚した瞬間であります。
このような点に留意しなければ、「依存症」等の否定的な状況に陥る人が起こす事柄を、むやみやたらにその「表現」なんだ、と還元し、理解した気になってしまうと思います。
 
2. 無力であることと「自分を越えた大きな力」
脇坂のこの論文の前提は、以下の二点を前提としています。


(1) 無力であることと「自分を越えた大きな力」と接続される。
(2) その無力さは、表現を必要とするということ。

 第一点目に関して言えば、「自分を越えた大きな力」とは、これまで通常は、「神」や「自然」といったものが想定されていました。しかしながら、「アルコール依存症」という事例において、ビルにとってのアルコールが「自分を越えた大きな力」となります。とすれば、これは宗教的な体験と異なるかといえば、そうではありません。脇坂が述べているのは、ビルもまた「霊的体験」(spiritual expérience)を経ているということです。ビルは自分にとって他者を助けるという「利己的な態度」が必要だと自覚したわけですが、それはなにも自分ひとりで獲得されたものではないという。「自分を越えた大きな力」によって与えられたものなのです。このように脇坂は言いますが、ここにはきわどさがあると思います。


 しかし、もしかしたらここが人がなにかネガティヴな経験を経た時に、それによってその苦悩の中にもちこたえ、生きていくことができるような決定的な前提なのかもしれません。
脇坂は述べています。


「(…) この力とのかかわりの中で、AAメンバーは自分たちの酩酊が「[人間が]神を演じる」という霊的に病んだ(spiritually sick)」状態から生じていたことを自覚する。(p. 66)



お酒に対して無力で、その酩酊になすがままに生きざるを得ない。脇坂によれば、しかしそれは、人間が神となっている(演じる)ことを意味します。そして、それゆえに、自身が神となるという霊的な体験をしたことが自覚可能になります。なかなか、酩酊=霊的に病んだ状態/神になった状態 という図式を、因果的に説明するのは難しいものがあります。


 第二点目ですが、因果関係についてはなにもいうことができませんが、私が補足できるとすれば以下のことです。つまり、無力さに表現が必要なのは、おそらく自分自身の無力さを意識する、この論文の文脈で言えば「自覚」することが大切だからだということです。こうも言うことができましょう。わたしたちが人間的な生活を営んでいくためには、意識的になることが必要であり、私たちにはその可能性が残されているということ。つまり、わたしたちが生きていくうえで、お酒であろうとなんであろうと、多かれ少なかれ自己の無力を感じることは多いと思います。それに対して、私たちは表現を通して意識的になることができるということ。自分自身が理性等によってお酒をやめることができるのだ、お酒に打ち勝つことができるのだ、と考えて、立ち向かえど、お酒に屈してしまう。その段階では、依然お酒対して牽制する力があると認めています。けれども、それでも結局不可能である。そのとき、なんらかの表現を獲得することで、自己の無力さを意識する。この道によって、私たちは、日常生活を営めるようになる。神の状態を演じ続ければ、それは狂った人として、社会からは放逐されてしまうのだから。


 このふたつの前提に対して、どのように思いますか? 両者ともに、因果関係を認めるのは難しいでしょうか?


 
3. 末尾にかえて
 ここまで、脇坂の論文を検討してきました。

 脇坂が生を「表現」へと還元するとき、それは、いかなる行動、ネガティヴな振る舞い(依存症、リストカット、自殺)をも、生のなんかしらの表現として見るということであり、極論で言えば、生きるとは表現であるということになります。

 私にとっての大きな関心ごとは、苦しみを生きるとは、いかにして可能かということであります。苦しみを生きるという場合、しばし、あるがままの自分を受け入れること、が言われたりします。しかしながら、私たちはあるがままの自分のその無力をいかにして生きることができるのか。すなわち、自分を受け入れる、自分の無力さを受け入れるとは、いかにして可能なのか。私たちには何が許されて何が許されないのか。つまるところ、私たちは沈黙を、忍従を、諦念を強いているのでしょうか。

 対して、脇坂が言う「表現」とは、私たちは、表現の在り方を選ぶことがきっとできる、という意味でこうした問題のひとつのポジティヴな答えだと思います。生きるとは、自分自身の無力さを、なにかしらの振る舞いや行為、ないし言葉でもって、自分の外へと押し出していく(ex=外に、press=押し出す)ことなのかもしれませんね。

*1:宗教哲学研究』(No. 25, 2008年)、京都宗教哲学