2012年9月3日 賭博について

 もうどうしてじぶんでじぶんを追い詰めていくのか、この性格は一生治らないのだろうか。

 すべてから逃れるかのようにして、競馬場へ向かう。雨が降っている。


 濡れてもいい。


 どうしたものだろうか、ひさびさに万馬券が当たって、夜には、くそのようなあぶく銭を消費する。


 思うに、貨幣とは、ことごとく、馬券のようなものではないだろうか。


 お金を、たとえば、1000円一枚を、馬券一枚に交換する。そのとき、賭博者は、等価交換を投げ捨てている。


 1000円を、その百倍以上のものへと交換することを求めている。


 けれども、ことごとく、わたしたちが買うもの、ことごとく、それが値打ちがないと思うのは、等価交換を超え出るものがその商品に認められないときではないか。


 100円ショップでなにか買って、それが100円に値するとわたしたちが信じるのは、期待する以上の享楽がそこに含まれているからではないか。


 一時間1000円のアルバイトを今でもしているが、そのような一見まともなアルバイトで稼いだお金とは、自分の身体を一時間捧げたに値する、言い換えればそれと等価交換が成立する、どんな余地があるのだろうか。


 それでも、この見え透いた嘘の等価交換を通して、ひとはなにかを所有するのだし、それ以外に、しようがない。


 まっとうな交換とはいったいなんだろうか。


 どんな交換も売春じみたものが含まれているのではないか。


 じぶんの身体を誰かの性的な享楽のために捧げることによって、お金と言う対価を手にするとき、問題なのは、いつも負けているということだろう。いつも賭博に負けている。


 けれども、賭博(不等価交換)を行うことが賭博に勝つことであるならば、春を売るとは、賭博に完膚なきまでに負けることだろう。


 いったい貨幣とはなんだろうか。


 きょうもまた、じぶんがものがかなしい。