2012. 09. 11 フロイトの症例アンナについて


 わたしたちは、どうしてこの世に生を受けるのか。なぜ生きているのか。このように人間存在が問うとき、人間存在は、他者のうちに、その答えを求めなければならない。


 かつてわたしの母はわたしにあなたがいなければよかったのに、とこぼしたことがある。幼児のわたしにいま思えばとんでもない母親である。


 ブロイアーというひとの患者にアンナ・Oという女性がいて、その女性は、ブロイアーの催眠療法によって、ヒステリー治療をしていたけれども、催眠状態の中で、語ることによって症状が緩和されていき、治療が完了したと思ったとき、ブロイアーに対して、次のような行為/症状を示したのはよく知られている。


 アーネスト・ジョーンンズの『フロイトの生涯』によれば、アンナは、ブロイアーの子を想像上で宿し、陣痛を訴えたのである。いわゆる、想像妊娠である。ブロイアーは、恐れをなして、治療を中断したのは言うまでもない。


 精神分析で言えば、ブロイアーは、アンナによって、かつての父親に置き換えられていたことになる。すなわち、転移である。アンナは父親の欲望を欲望するのである。


 けれども、アンナはどうして、父親の欲望を欲望しなければならないのか。強迫的に転移において反復してまでして、どうして再び父親の欲望を欲望しなければならないのか。


 もちろん、ここでいう「父親」とは、象徴的な次元でのことである。ただし、この象徴的な「父親」は、現実的な彼女の父親との関係のうちで形成されている。ブロイアーはちょうどそのころ、妻に子が産まれるのを切望していたわけで、どうしてそのようなブロイアーの欲望が、「父親」の欲望となるのか、そこには論理的な飛躍があるように思われるかもしれない。けれども、そうではない。この「父親」という語は、父権的すぎて嫌ならば、「誰か」という語に置き換えても問題はない。


 人間存在は、自己の存在意義を「誰か」の欲望の内に見出さなければならない。なぜか。それは、人間が「主体」である限り、宿命づけられているからである。「主体」である限り、人間は、鏡に映った己を、己として想像上において自己同一化しなければならないのである。


 どうして、この情念渦巻くからだが、「自己」のものであると、「自己」の「所有物」でえあるといえるのか。それは、原初的に、この身体を我有化する機制のうちに、求められる。どうして、人間存在は、生きているのか、すくなくともこのような人間がそのように自己の存在意義を問うとき、わたしたちは、再びこの根源なき根源に舞い戻らなければならない。


 あるいは、どうしてそのような問いをわたしたちが抱えるのか。アンナは、抱えざるをえなかったのか。


 どうしてアンナは、ベルタ・オッペンハイムという主体的で社会福祉の活動家として慈善活動に、言い換えれば他者に奉仕する活動に以後おのれを企投していかなければならなかったのか。


 すくなくとも、こう言うことができる。わたしたちは、鏡の前に立たされる。そこで己を己として獲得するとき、我有化するとき、わたしたちは歴史的社会的制約において自己を獲得するのである。歴史的社会的とは、具体的にはじぶんの肉親や自分を育てるひとたちの環境を言う。それらとの関係の中で、己の鏡像を自己たらしめていく。


 にもかかわらず、その鏡像としての自己に、存在価値を見いだせなくなったとき、己が己として保つことの不可能性につきあたったとき、存在者は、問わざるを得ない。


 どうして、「わたし」は「わたし」であるのか。どうして、この「わたし」が「わたし」として、生きているのか。「わたし」はどうして生きなくてはならないのか。どうして、こんなにも「わたし」は「わたし」に釘づけにされているのか。どうして「わたし」は「わたし」から出ていくことができないのか。どうして「主体的に」生きなければならないのか。こんなにも重苦しい仕方でしか生きることができないのもかかわらず、と。


 フロイトの患者「狼男」も、亡き父の残した財産を巡って、繰り返し母を激しく攻め立てている。


 「母親は、自分を愛していない。なるべく自分にお金をくれないようなことばかり考えている。おそらく母親はお金を独り占めするために自分が早く死ねばいいと思っているに違いない。」と。


 この問いは、親の欲望についての問いであり、自分が親の欲望の対象であることを求める問いである。ブロイアーの患者アンナも、死んでしまいもはや再び会うことのできない取り返しのつかない父親に代わって、ブロイアーをその座に座らせることによって、ブロイアーの「欲望の対象」を探すこととなったのである。


 幸福は、「欲望の対象」を探し求め、確固たるものとすることにあるのだろうか。


 あるはずもないところに、欲望を探し求め、生きることを余儀なくされているのだろうか。


 なるほど、欲望を放棄すること、それはこの文脈においては、ほとんど生きるのをやめるに等しいだろう。


 精神分析は、決して欲望を手放すことはないだろう。


 けれども、「欲望」を求め生き続けるのではない仕方で、生きることはできないのだろうか。


 ただし、それは俗的な仏教の、自己の欲望の断念として生きるということではない仕方で、それを問おう。


 それは、そのような意味と存在意義と価値の根源を常に、固定的で、もはや不可逆的な基礎づけへと曝すのではない仕方で問うことである(それは、反精神分析であろうか)。


 なぜなら、そこでの「自己」とは、常に、なんらかの鏡像を獲得していく構造にせよ、肉親や周囲との関係にせよ、一度構成されたならば、常に欠如し続ける対象を、欲望の対象として求め続けることをわたしたちに余儀なくするからである。


 これは、理論的には、大きな制約ではないか。あるいは生きていくことの中で、諦めにも似た立場を強いるのではないか。


 そのような偏狭で行き場のない「自己」を、エクスタティックな快楽plaisirによって、乗り越えることはできないのだろうか。


 おそらく、それこそ、あるスキンヘッドのフランス人哲学者が行おうとしたことではなかったのだろうか。