中国のデモを通して

 依然、「尖閣」問題に端を発した中国でのデモについて、すこし触れた記事を書いたことがあるが、今日、習慣読書人の孫歌氏と丸川哲史の対談記事*1を読んで、自分の浅薄さと軽薄さを思い知ったので、改めてここに印しておく。


 第一に、まず私が驚いたことは、彼らが「国家理性」と「主権」からこの問題を論じている。恥ずかしながら(?)私には、このようなタームで物事を考えたことはなかった*2。まず彼らが指摘するのは、①そもそも石原の「島を買う」という国内の局所的な発想と論理にこの問題を端を発しているのだが、一介の多くいる知事の論理であり、これは当然国際的に見たときの日本の侵略の歴史をどう見るかという視点の欠落を指摘できることとはいえ、こうした国内の論理をあくまで字義通り、「国内」にとどめておくことが可能だった。にもかかわらず、野田首相は、「国有化」によって、そうした国内問題をそのまま国際化してしまっている。②野田首相本人は、にもかかわらず日本側の「国有化」の方針がこれほどまでに中国側の烈しい反応を引き起こすことになるとは思わなかったと述べている。以上の二点から見て、まったく野田首相/日本政府は、国家的な規模で(ネーションステイト国民国家は、他のネーションステイトに対峙して初めて産まれるのだから)政治的な判断を下していない、言い換えれば、「国家理性」がまったく欠如していると。

 
 「尖閣」問題の詳しい経緯については、以下のサイトが詳しい*3


 第二に、なぜ「国家理性」によって、物事を考えなければいけないのかについて、記事は、見事に説得している。とりわけこの特集に添えられた羽根次郎の「鈍感な日本の言論空間」*4が説得的である。羽根によれば、政治的立場の左右を問わず、大使館にペットボトルを投げ込む映像によって喚起させられる「野蛮で冷静さを失った中国人」のイメージは、「うっぷん晴らしのためのデモ」の言説となじみやすく、「冷静さの喪失」や「ナショナリズムの沸騰」という帰結へ行き着いている。わたしもナショナリズムの高騰だと考えていた。


 しかし、それは事実を正確に捉えていないのだ。たとえば、かつても小泉首相靖国神社公式参拝したことに対して2005年にも大規模なデモがあったが、それとは現在のデモは大きく異なっている。なぜならば、今回、中国人は、国家主権が侵害されたと認識しているのである。ただ、一般的日本人が考える以上に、中国のひとたちにとって「国家主権」は、歴史的に重要である。というのも、中国の現代史とは、1949年の気国以来、日中戦争における「抗日」を契機として、朝鮮戦争における「抗米」、そして文化大革命当時の「抗ソ」に顕著なように、「独立」と「主権」の問題の歴史であると言っても過言ではないからである。


 それは、日本人が「市民」として考えることができるとは異なり、中国において「主体」とは、「民族」(ミンズー)でしかないことがまさしく示している。こうした「民族」ミンズーの歴史については、この記事では触り程度にしか語られていないので、わたしももうすこし別の文献等で、ミンズーと主権と独立の中国近現代史を勉強する必要がある。この勉強の成果については、いずれupしたい。


 いずれにしても、一見して、デモとして総括り可能な、中東諸国にしても、中国や韓国にしても、きちんとしたその国の政治的「主体」の可能な在り方を考えずに、なにかを論ずることは、はばかるべきである。これが今回のわたしの教訓である。浅はかな歴史的な理解こそが、国際問題への浅はかで子供じみた関与を生み出すのだ。


 第三に、沖縄の問題について。中国の人たちが、ミンズーとしてしか考えることができない歴史的状況にあるのに比して、どれほど日本人は「国家」的な規模で思考することができるのか(国家的な規模ということは、どれほどアジアの歴史を可能な限り歪曲を避けながら把握することを伴う)、一ネーションステイとの「主権者」として思考することができるのか。丸川は述べているが、彼が務めている大学で、中国の方たちと日本時に議論させたところ、中国の留学生は、「私は主権を守るため、中国の国民として闘わなければならない」と言ったのに対して、日本の学生は、それまで自分たちは「主権」という概念でア何かを考えたことがなかったと吐露したという。


 しかし、「日本」と名指される地理的領域において、もっとも「主権」を意識して思考し考えた来たと思われるひとたちがいる。それこそが、沖縄の人たちである。沖縄のひとたちは、「琉球独立」という願望を持ちながら、あえて、社会的規模ではそれを求めなかった。その理由にはさまざまあろうが、ある人は次のように語ったという。

 もし独立がユーゴスラビアのような地域紛争までも引き起こす危険性があれば、我々はあえてそれを求めない。


 こうした冷静な政治的判断にうちには、もちろんなんらかの美的な態度が見出されるし、とはいえ、じぶんたちを国際政治的状況の中で、かたくなに「琉球」「国民」として意識することもなく、フレキシブルによき在り方を模索しようとするエートスが見出される。


 このような事情を押さえたならば、すくなくとも現在「日本」に住み生きる者は、あるいは「日本」にアイデンティティを感じる者は、まずもってその「日本」なるものの、琉球を自己領土化していくことに支えられているその歴史をまなざさなければならない。そもそも「尖閣」なるものは、「琉球」を沖縄化することによってしかなしえない。


 だとすれば、明らかにアジアに住む人たちの主権感覚への配慮なしに、なんらかの政治的判断は控えるべきである。やはり、ユーロではないにしても、「アジア」というより包括的な視点で、偏狭な一国へのナショナリスティックな感情の固着化を緩やかにするためにも必要なのであろう。そして、どうも「アジア」に「中国」が除外されている感があるが、そこに、つまりは「アジア」なるものに、「中国」をも入れて考えることは必須である。



 

*1:習慣読書人2012年10月12日2960号

*2:というより「国家理性」という語や、「国民」というのは、まずもって、ヘーゲル的な弁証法的な論理の中に入るとずっと思ってきたから、避けてきた。まずたとえば自分が山田太郎であるとする、まず自然的な生命を持つ一人間的個体は、鏡の前で、じぶんがないしじぶんの身体が「山田太郎」に帰属することになる。そこから、自分の所属するコミュニティにせよ、「国家」にせよへの同一化によって、はじめて「国家理性」的な止揚された立場に行き着くと思っている。そうであれば、第一にまずこうした自己を超越したあり方へと止揚していくロジックに抵抗すると同時に、第二に世界史的な視点では(ここではアジア的な視点では)さしあたり現状がネーションステイトを基軸にしている以上、「国家理性」の観点から現行の政府/内閣を批判すること、この両方を行うのが時宜にかなっているだろう。

*3:http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_71.html

*4:前掲新聞、同号、2面