2012年9月26日"The many faces of Muslim rage"


 アメリカのとあるアマチュアが撮ったムハンマドを冒涜するような内容のフィルムに対して、イスラム諸国のひとびとが抗議を行っているという。


 私の読んだ記事のひとつの指摘がとても面白い*1。それによれば、エジプトでは政府指導の下Muslim Brotherhoodがアメリカ大使館を保護するために、軍隊を派遣しているのだが、そこでその政府軍が対峙しているのが、政府同様イスラムを「守る」(defond)ことを標榜するムスリムのデモの抗議者たちであり、大変奇妙な光景であると。


 加えて、この新聞の論者が言うように、声高に抗議を表明するのはたいてい過激派であり、たとえそうであることは置いたとしても、デモ参加者のいったいどれほどの者たちが、実際その映画を見ているのだろうか、と。なるほど、確かにそのフィルムを見て動揺しないムスリムはいないだろう、しかし、いったい見てもいないはずのひとたちが、なにによってアメリカに怒っているのだろうか、と。


 どこかのバカ痴呆ナショナリストの知事の提言に端を発して、どこかのネーションステイトとどこかのネーションステイトとの境目にある(しかし歴史的に見れば、いずれにしても「侵略」が見出されるだろうということは置くとしても)島を購入することによって、目下どこかのネーションたち(国民)がもういっぽうのネーションステイトに対して、もう抗議をしているらしい。


 はっきりいえば、わたしには、こういうナショナリスティックな感情がわからない。


 ムスリムたちが、じぶんたちが自己同一化し、神格化している予言者を、誹謗中傷されたことによって、怒りを覚えるのは、とてもわかる。身近に、自分の大切なひとが誹謗中傷されたことを想えば、当然の感情である。しかし、見てもおらず、ただ「誹謗中傷されているぞ」という情報だけで、憤りを感じる情動のエコノミー(憤りを感じるような精神的回路)はまったくもってわからない。


 漁師をしていて、それまで自分が糧を得ていた海域の島を急にどこかの国が購入して漁ができなくなって憤るのはわかる。しかし、じぶんの住んでいる国が隣接の国との境目にある島を、その隣接する国によってぶんどられたという出来事に、憤るような情動の回路はわからない。ぶんどった国に住む者としては、横柄なことをしないで、ちゃんとした政治的外向的な交渉をしなさい、と言うだけである。


 身近に感じる問題だけに政治的な行動をしろというのではもちろんない。ただ、どこか、憤りの対象をすり替えられていないか、と想うだけである。


 こんなひとの住み難き 物質に汚染された土壌にしたのは誰だ
 こんな生命の棲む難き そうした生命を頂きがたき 循環させないシステムを残したのは誰だ
 まったくふとうめいな 水俣の50年を未来に投影させるこの未来を作ったのは誰だ
 そしてそれを助長してしまったのは 誰だったか。
 いったいわれわれが憤らなければならないのはなんであったか。
 じぶんじしんでなくて誰であったか。
 こんなじぶんの憤りなき憤りを
 やるせなく握りしめているのは
 遠い眼で曇りゆく夜空を見上げているのは。

 
 

 

*1:"The many faces of Muslim rage" The Japan Times Weekly, September 22, 2012, 1面