鈴木大介の著作 −−傷付きやすさについて

 以前、愛読しているblogでとりあげられていた鈴木大介さんの三つの著作を一気に読んだ*1

家のない少年たち 親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル

家のない少年たち 親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル

出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで

出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで


 これらの三冊は、基本的に鈴木さんが取材をし、それをもとにしたルポルタージュであり、対象が、家出をしている10代の少年少女を中心としたものか、20代後半以降のシングルマザーを対象にしているかによってそれぞれ異なるものである。


 三冊を読み比べた感想として、どうみても、『家のない少年たち』の一冊がつまり「不良」とされる少年たちの記述が一番、小説的で物語的で、楽しく読めるということだ。どうみても一番つまらない、くだらない、どうでもいい。迫真に迫ってこない。饒舌で、目的論的である。鈴木さん自身のメンタリティーに近いところにあるということが想定されるからだけでなしに、明らかに、家庭の悲惨な状況に育った子供たち(親からDVを受けたり、愛されず、暴力を絶えず振るわれていたり等々。本書で登場したシングルマザーの女性たちは、明らかに『少女たち』のその後を描いているかのような、家庭の悲惨さを経験している)の中でも、「男」(性)が反社会的であるが社会的に生き抜きやすいという事情を物語っている。反転して、「女性」は、たとえ女子中学生女子高生として積極的に自ら援助交際をしていたとしても、その唯物性に基づく「傷つきやすさ」(可傷性)に絶えず翻弄されている。妊娠という常に突然襲い掛かる生命としての他なるものが宿る可能性に曝される。具体的に言えば、男性は、結婚をして相手との間に子どもができても、明らかに蒸発しやすく(実際、本書で登場した少女たちは、出会い系の中で誰の子かわからない子を妊娠し中絶を経験しているし、シングルマザーとなって恵出会い系で「援助交際」を行う女性たちの夫たちは、DVをしたりないし突然蒸発もしている)、身体的に密着を余儀なくされないのに対して、女性は、産んだあとも、「社会的に」も子ども扶養することが要請され(「父親失格」という言葉と「母親失格」という言葉のはらむ政治性を考えたい)ると同時に実際上授乳等を行いつづけなければならない。


 加えて、読みながら興味深く考えていたのは、「権力」ないし「統治」のあり方と内面との関係である。新自由主義といわれる現状にあって、規制緩和や貿易等の自由化がひたすら進行しているが、たとえば、郵政民営化とうにみられるprivatizationや、社会的な領域で「自己責任」という仕方でprivatization(これまで「公的」だった問題を、個人の問題へと、「私的」な領域へと問題を還元する)が行われているが、一見すると、政府の役割を脆弱化にしているように思われるが、つまり古典的な自由主義のように「市場」の神の手に委ねようとしているように見られるが、同時に、「安心安全」という標語のもとに、政府ないし官僚の多くの領域への介入ははるかに強力になっている(大学等の運営交付金等における現状を見よ)。
 具体的に本書の末尾等で示されていた東京都における政治的な状況を叙述しよう。2004年からは東京都をはじめとする各県が改正青少年健全育成条例等の条例を一斉に施行し始めり、これによって深夜に成人の付添なくして遊戯施設(漫画喫茶およびカラオケボックス等)への入場ができなくなる。また2009年自公政権下では、生活保護の「母子加算」が廃止される(09年12月に復活)。石原都政のやっていることは周知のとおりであるが、このような介入によって、それが「青少年を健全に育成しよう」という名目であれ、本質的に状況を変化させることができない。それは、実質、深夜に成人の付添なくして遊戯施設に入れなくなったと書いたが、それによって、「家出」する少女たちは、泊まる場所を求めて援助交際をし、ないし泊めてくれる男を探す等、他のより貧困な手段に頼らざるを得ないだけなのだ。そのような規制によって事柄が本質的に変わらない。

 しかし、改めて考えれば、それははじめから見込まれていたのではないか。つまり、規制は、青少年を健全に育成することを目的とはしていないのではないか。つまりその規制によって、それまでは未分類だった未成年たちを「不良」や「不健全な」ものたちとして産出しようとしているのである。これはフーコーの分析の援用であるが、しかしフーコーにおいても問題となるが、これは、やはり内面の問題なのである。個人に「不健全」や「ダメ」や「母親失格」のレッテルを張るのは、社会や国家ではない。個人自身なのである。

 興味深いのは、少年、少女、シングルマザーの三つのうち、とりわけ『出会い系のシングルマザーたち』の「あとがき」における以下の鈴木の言葉である。

 告白したい。本腰を入れてからおよそ一年の取材、そして執筆を通じても、実は僕は本書に登場する出会い系のシングルマザーたちに心の底から共感はできなかった。理解はできる。憐憫の情にもかられる。だが共感はできない。残念ながらこれが本音だ。美談を書くつもりはなかった。ただ、泥まみれのその姿を、そのままの姿で描こうと思った。(170頁)(太字引用者)


 鈴木にとって、しかたなしに援助交際をしたり、反社会的な行為に走る少女や少年たちのメンタリティは理解できる。そこには苦悩こそ当然あるがなにかしらの反骨心や、なんとかこの状況をしてやろうという気概が見出せるのだ。しかし、「出会い系のシングルマザーたち」に鈴木はそれを見出すことができない。


 彼女たちは、世間の目を気にした、いわゆる「まっとうな」シングルマザーたちである。どういうことか。つまり、「生活保護」を申請すれば、通るほどの貧困状態なのに、「結婚」や子どもがいじめられるといった事柄を理由に申請を断固として拒み、なんとかその状況を自己に引き受けて生きようとする。まさにその貧困状態の責任を自己自身で引き受けているのだ。たとえ、その貧困が前の世代から(つまり彼女たちの子供時代から、つまり両親たちも同様の貧困状態にあったとしても)引き続いていたとしてもそうなのだ。それはあきらかに社会的で「公的」なものではないのか。

 彼女らは、それゆえに、出会い系サイトで、援助交際をする。しかし彼女たちは「援助交際」だとは決して言わないのだ。彼女らは、知り合った男性たちに、身を売っているという意識がなく、ただ性交を恋人とし、その恋人にお金を支援してもらっているだけだと、捉えるのだ*2。それゆえに、鈴木にはこのメンタリティーがわからない。明らかに「援助交際」ではないか。しかし、彼女たちはどこから心の寂しさを出会い系サイトに求めていて、そこで自己救済をしているように思える。『家のない少女たち』がただお金のために身体を売っているのとは異なる。彼女たちは、仕方なく「援助交際」をしているのではないのか? どう考えても仕方がないような状況だからではないのか? でもどうしてそれを認めないのか。どうして「生活保護」の申請をしないのか?

 鈴木からはこうした嘆息の声が漏れているように思われる。


 「仕方がなく」思えるのは、風俗では、彼女たちはもはや働けるような状況ではないからだ。風俗では、いわゆるアナルセックス等をOKとするか、容姿が整っているという条件や社交性がある程度あるという条件でしか雇ってもらえないような昨今の事情があるという。詳しくは本書を見てください。


 だから、どう考えても仕方がなくやっているように思われる。にもかかわらず・・・。


 私が考えたいのは、おそらく「統治」のあり方が、権力の作用の下で、問われているということだろう。「統治」といったのは、一応国家的なレベルでの統治と、他方で、自己統治のあり方である。しかし、これを必ず対応しているように、私には本書を読んで思われた。



 これ以上は、推測の域を出ないし、ルポルタージュの限界であろう。ただ思うのは、どう考えても、彼女たちは、新自由主義と言われる時代の「主体」のあり方、それも経済的社会的な競争に落ちこぼれてきた「主体」の象徴的な在り方ではないだろうか。


 「主体」は、ここでは本当に痛ましい。傷が裂けて見えている。




 

*1:細かい内容紹介については、以下のブログを参照してください。私は以下では、font-daさんが記述しなかった事柄を書きとめたい。http://d.hatena.ne.jp/font-da/20120529

*2:貨幣と引き換えに身体を与えることの問題を考えるにとても興味深い事柄だ