ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』


 クロソウスキーの1970年刊行の評論集。前年1969年には、『ニーチェと悪循環』を刊行している、ちなみに。この本の挿絵には、小説三部作をまとめた『歓待の掟』の一場面が使われており、『ロベルトは今夜』が1953年で、『ナントの勅令』が1959年、そして『プロンプター』が1960年であることを考えても、クロソウスキーの思想の結実ともいえる本。この本が他の著作と異なるとすれば、あきらかに”経済”に関わる本であるということ。


 生きた貨幣とは、なんのことであるかといえば、端的に言えば、人間の身体であり、クロソウスキーは、労働の支払いとして、人間の身体の使用権を差し出すことを言う。男も女もじぶんの身体を差し出す。しかも、明らかに念頭に置かれているのは、性的に使用されることである。


 クロソウスキー自身、『歓待の掟』でどんな情景を描いているかと言えば、それは、じぶんの妻を、やってきた第三者に差し出すということである。それが、歓待の掟である。この掟が掟である所以は、その第三者が、ちゃんと”人妻を犯している”という意識を持たなかった場合には、主人のオクターブがきれちゃうところに如実に表れている。こっそりと、妻が見知らぬ男に犯されているのを覗き見る夫。


 ここには、あきらかに倒錯的なセクシャリティーが見て取られるが、しかし、クロソウスキーの思想を性的倒錯に還元してしまうこと、ばかげたこともない。むしろ、わたしにとって、彼の思想の魅力は、じぶんのじしんの妄想を、本源的なものとして、肯定する点にある。

 
 本書で、クロソウスキーが根源としておくのは、1)「情欲」(émotion voluptueuse)であり、情動や衝動、欲動の次元である。この情欲は、誰かに伝達可能なものでは決してない。そして、この「情欲」とは、諸力の戯れの場である。人間はこの「情欲」に突き動かされて、2)ファンタスムを産みだす。このファンタスムを享楽するのが3)繁殖本能、生存本能である。これが興味深いのは、クロソウスキーによってこの衝動の次元が、経済の次元と重ね合わせられる点にある。図式化すれば以下のようになる。



衝動の次元                 経済の次元
1) 情欲                  生産者
2) ファンタスム              生産物
3) 繁殖本能                消費者


 通常生産者は、明確な意思を持ちちゃんとした理性的な判断を行う人間が想定される。言い換えれば、近代的・経済的自立した主体である。しかし、クロソウスキーは、経済の次元を衝動の次元へと還元しようとする。そのとき、そうした自立的な「主体」は、「情欲」という諸力の戯れでしかないものへと置き換えられる。ここには、要するに、なにも人間存在の欲動/情欲が生み出すファンタスムが垣間見られない生産品など、なんの価値もないというクロソウスキーの断言が見られるだろう。


 実際、クロソウスキーは、ファンタスムとは、個人の統一性を脅かすのに対して、むしろ生産品/物の方は個人の安定性に役立つものであるとして、両次元における対立を指摘している。故に課題となるのは、この両者が(といってもファンタスムに比重があるのは言うまでもない)和解する「等価物」を作り出すことなのである。「等価物」とは、要するに、シミュラークルである。模造品である。しかし、なんの模造品であるか。それは、イデアではない。情欲のシミュラークルである。


 ファンタスムとは、想像力の所産であり、とりわけ性的なものと関わっているので、妄想という語で表現されても構わないだろう。そうすると、そんなのはじぶんの妄想を如実に表すものを手にしたい男の欲望に過ぎないともちろん解釈することもできるが、しかし、何度も言うように、重要なのは、そんなことではない。


 消費者は、生産者に、企業に、あれが欲しいと主張する。あるいは、企業は消費者のそうした需要を見込んで、生産物を作る。しかし、われわれの時代の商品とは、明らかに、単なる生存欲求を満足させるためだけに作られていない。「需要」(demande)というフランス語は、別の語で言えば、「要求」である。これは、一応精神分析では、「欲求」と区別されrう。「要求」とは、人間の欲望に関わる。すると、大量生産大量消費の時代と1970年代移行言われて久しい日本や精神国の状況で問題となっているのも、まさにこの欲望の次元である。われわれが商品を欲しいと思うのは、われわれの欲望にその商品がかなっているからである。クロソウスキーの言葉で言えば、その商品が、一見ただの物にすぎなくとも、人間のファンタスムにかなっているからではないか。


 しかし、クロソウスキーの問いは、そこにはない。われわれの時代の商品は、ほんとうにわれわれの情欲、そして情欲が生み出すファンタスムの「等価物」たりえているか? クロソウスキーはそう問いかけている。そこに、ファンタスムの強度が認められるのか? と。


 クロソウスキーの結論は、簡単な話である。人間のファンタスムの等価物の形態としてもっともらしいのは、「貨幣」である。しかし、「貨幣」のうちでもっとも人間の強度のファンタスムを支えることができるのは、人間それ自身以外には考えられない。生きた貨幣だけである。そういう結論である。


 歓待の掟とは、第三者に、じぶんのファンタスムをもっとも如実に体現してくれる、人間それ自身を、他者に与えよということである。


 まあ突飛な考えであるが、わたしがやはりいいなあ と素朴に思うのは、ここには、じぶんじしんのどうしようもないファンタスムでさえも、シミュラークルとしてそれを肯定することだ。


 例を挙げるならば、クロソウスキーは、どうみてもどんな絵画的価値もなさそうなしょうもない絵ばっか描いているが、しかしそれでいいのである。なぜなら、クロソウスキーにとってその絵は、まさに彼自身のファンタスムの等価物たりえている、ないしすくなくともそれを目指しているからである。


 人間は、たとえば、こうしてblogで書くこともふくめて、なんらかの美的な「作品」として、誰かに認められたり、歴史に名を残すことができるできないにかかわらず、書くことや、描くこと、歌うこと、等々するべきなのだ。しかし、われわれはおのれの情欲、おのれのファンタスムにほんとうに等価なものを描き、書き、高らかに歌っているだろうか?


 こうした思想は、めまいがするほどひとを高ぶらせる。すくなくとも、わたしをこんなふうにして。